
朝8時30分、名古屋駅に集合し、いざ象鼻山古墳群へ。
参加者13人。パラつく雨の中、養老鉄道の美濃高田駅から4㎞以上の道のりを歩いて、象鼻山の麓にたどり着く。

山道を登りながら目にするのは、木々の間に見え隠れする古墳、古墳…。その数に皆、驚く。
象鼻山古墳群は、岐阜県養老郡養老町に所在し、およそ2世紀後半から7世紀初頭に造営された計70 基からなる古墳群である。
山頂に立地する1号墳は、全長約40mの前方後方墳で、き鳳鏡(中国 漢の時代の鏡)や鉄剣、鉄刀、琴柱形石製品等が出土しているそうだ

墳頂に上がってみる。
やや細めの前方部や、段築が残る後方部の形が良く分かる。

しかし、それ以上に、私たちの心をとらえたのは眼前に広がる濃尾平野の風景だ。
現在は道路こそ走り、田畑は四角に整備されているが、牧田川が揖斐川に流れこむこの場所は、きっと弥生時代から豊かな実りを生んでいたはずだ。
実際に山のふもとから2㎞のところに日吉遺跡という集落跡が見つかっている。

1号墳の主はきっと、この場所から、稲作に精を出す民や集落から立ち上る煙を眺めたことだろう。金色に実った田んぼも…。
空想にふけっていると、Kさんが「名古屋のビル群が見えるよ!」と教えてくださった。
雨は上がり、遠くに名古屋駅のビル群が見えた。それだけではなく、大垣 昼飯大塚古墳も見える。他の地域の古墳群との関係も気になるところである。
1号墳は3世紀半ばの築造だが、それに先んじて2世紀の後半に作られたのが3号墳だそうだ。
70mの方形の壇の上にお椀をかぶせたような(下壇と円丘からなる)上円下方の祭壇というがとても興味深い。
弥生時代の周溝墓から前方後円墳へ移行する過程の姿かしらと勝手に思いを巡らす(70mの周溝墓は大きすぎるが)。

山頂から南に歩き、4号墳や16号墳などの方墳を見ながら、斜面を降りてみると、
そこには、無数の円墳や方墳が所狭しと並び、神秘的でさえあった。
弥生時代、古墳時代と続いて、この山は一族の神聖な墓所だったのだろう。
いったい何人の人が、棺を担ぎ山道を登ったのか……500年にわたって、古墳造営と祭祀が繰り返された場所なのだ。
帰宅後、夕食の準備を済ませたころ、家族の1名が帰ってきた。養老軒のふるーつ大福と書かれた袋を手にしている。私の眼は養老の文字に釘付けになった。(日帰り出張とは聞いていたが、)大垣に出掛け、帰りの岐阜駅で購入したそうだ。
夕食後、大福をほおばっていると、もう1名の家族が帰宅。(我が家の構成人員は私を含め3名である)車で関西方面に出掛けていたのだが、夕食不要とのたまう。「帰りに養老のSAで食べてきた」 というので、今度は耳を疑った。
養老SAは私たちが昼食休憩をとったところだからだ。この日、時間こそ違うが、家族全員が養老方面に出掛けたのだ。
これは偶然かな?もしかして、象鼻山の王に呼ばれたのかな?
名古屋のビル群を見つめながら、象鼻山の王がくっくっと笑っているような気がした。