志段味大塚古墳に舞い降りる白馬

令和3年12月を直前に控えた落日時、突如として南の空に現れた白馬の影。手綱もかかり、前足を畳んで間もなく黒い小山に着地しようとしている。おなかの辺りには、何か入れ物を吊るしている。新しい宝物がいっぱいに詰められているみたい。

真下の黒い山は少し前に再建された「志段味大塚古墳」なり。

その右には大木の林が2~3群立っていて、ねぐらにいた無数の白い鳥たちが肝をつぶしたような情景を呈している。寝ぼけている場合じゃないのだろう。

日暮れ時の青い空の色が印象的なり。

歴史の里マイスターの会 会員 坂下信夫

磯長(しなが)谷古墳の探訪

2021年11月12日、二上山南西側にある「王陵の谷」を、大阪府立近つ飛鳥博物館を見学後に訪れました。ここには4つの天皇陵と太子墓があり、いわゆる梅鉢御陵と呼ばれています。 

まずは山田高塚古墳(推古天皇陵)に向かいました。三段築成の方墳(東西59m、南北55m)です。

近くには二子塚古墳があります。双方墳(長辺60m、短辺25m)で、整備中ですがそばまで見ることができました。各方形部分に1基ずつ、刳貫(くりぬき)式石棺がおさめられています。

続いて竹之内街道沿いに、直径30mの円墳である上ノ山古墳(孝徳天皇陵)があり、

さらには、一辺60mの方墳である春日向山古墳(用明天皇陵)が見えます。

最後に訪れたのは、太子廟のある叡福寺です。奥城(おくじろ)古墳(直径54mの円墳)の中に3つの棺がおさめられており、「三骨一廟」です。玄室中央奥に聖徳太子の母后穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の石棺が、前方右に太子の、左に太子の后膳部菩岐岐美(かしわべのほききみ)郎女の夾紵棺(夾紵きょうちょ=麻布、乾漆棺ともいう。)がそれぞれ置かれています。

大坂越え_穴虫峠(二上山の北)あるいは竹内峠(二上山の南)

後の履中天皇が、難波から大和へ逃れる途中、弟の軍勢を避けるよう当麻(たぎま)道を行けと、出会った少女に教えられた。そのときの歌。そして関連の万葉歌。

 

     大坂に 遇うや少女を 道問えば 直には告らず 当摩径を告る  (日本書紀64)

  大坂を 我が越え来れば 二上に もみち葉流る しぐれ降りつつ (万葉 巻10-2185)

 

この日実際、時折雨のぱらつく中を、竹之内街道の一部を歩いていきました。(新生イケメンクラブ)

日没直後の庄内川夜景

撮影場所:東谷橋(大矢地区)2021.11.13 17:08

古墳時代のこの地点はどのような感じだったのだろうかなと思い、撮影してみた。

日没になると、どこでドンちゃん騒ぎをやっても怒られない場所だった。病院もなく、バスもないし、とてつもない殺風景で、怖いところだったと想う。

自分たちの手で造った古墳だけが、恐れの多い存在だったかもと思えてならない。

怖い~!  

東谷橋の北の端、南の端・・共に上志段味大矢地区に入り名古屋市なり
東谷橋の北の端、南の端・・共に上志段味大矢地区に入り名古屋市なり

    東谷橋の下流の先の流れの中央にあるのは新東谷橋の橋脚で、その先の左岸が「才井戸流」と言って湧き水の多い地区なり。

右岸も同じことで今の出川町の北部辺りから湧き水があり、土地改良により出川町に名を変えるまでは難儀な地区だった。

もともと、東谷橋から眺める右岸も左岸も湧水の多い軟弱地帯と言うことなり。この軟弱地帯は木曽の御嶽山の大噴火の結果もたらされたものと言われており、この地区から現在の伊勢湾岸沿いに続いている。

    才井戸流(さいいどながれ)は地区の名称で、現在の守山高校・志段味東小学校・新設の商業施設コストコなどがある。数年前までカヤなどが茂っていて歩くのに四苦八苦するところであった。過去にその芝の中を歩いたことがある。ガサゴソとしばらく歩いて行くと下の方からジャー・ジャーと音が聞こえて来た。興味深々となり2歩ほど進むと、目の下に直径60センチほどの穴があり、そこからの音だと分かった。詳しく見ようとしてその穴の淵に歩を進めたところ、穴の縁が壊れて落っこちそうになった。右足のひざまではまり、底なし沼に感じた。草むらを不用心に歩くものではないなと思ったが、とっさに掴んだカヤの根株のおかげで今も元気でいる。

 近頃、この辺りに市営バスの転回場が出来たり、大きな商業施設などが立ち並ぶことになった。深い穴のことは昔話になりつつある

が、写真で見る限り、東谷橋の下流の右岸はいまだに湧水などで難儀していて、日常生活では扱いにくい土地のように感じる。大雨の

朝は出勤の車がはまると聞いたりもしており、大河:庄内川の恵みとは別の心構えが大切みたい。

森林公園の多くの池群からの湧水が大久手池や石拾い池に流れ込んで, 大矢川となって、大矢地区方面で庄内川に流入している。

    土砂降りの庄内川はどうなっているのかな~と思っているが、見たいもんと怖いもんを天秤にかけている昨今なり。

 

歴史の里マイスターの会 会員 坂下信夫

金色少年武人盾持埴輪

盾持ち埴輪をニューテラコッタ粘土で作ってみた。

“雑な作りのあら隠し”にと金色塗装を施したところ埴輪はたちまち、妖しく光る少年武人の姿と化した。

 

 

古墳時代の少年少女は何を思い、何を心の糧に生きたのだろうか。

 

おまけ

 

 

 直立の武人埴輪や夏霞

 

2021.5

 

新生 イケ麺クラブ

新入会員研修をかねて  2021.3.18

・・西高蔵遺跡を巡る・・・高座公園にて・・

 

ガイドさんの話しに聞き入る会員の中に、盛んにメモを取る女性が一人、ひっきりなしにメモっている。

 

専門用語がすぐに書けるのだろうかと要らぬ心配をした。

他の人にはなかなか出来ない能力で、うらやましいかぎり。

高座遺跡から高座結御子神社をかすめて高座稲荷社をめぐる森の中

 

うす暗い森の空間だが、天候の好いさわやかな空間で桜の開花談義があったりした。

 

衣装も春めいて大きな白い帽子にピンクの上着などほんわかな感じがイイね。

 

高座結御子神社から西側には高座4号墳~高座稲荷社などがあり、赤い鳥居が連立し、迎え入れてくれた。

いよいよ断夫山古墳に・・高いところが好きな人ばかり

 

最後尾はこの組のしんがりでロープ製のゲートを入ったばかり。急な坂に取り付いたところなり。

 

通称:断夫山古墳は前方部が四角張っていて、後方の丸い山がくっ付いたような古墳なり。

 

前方後円墳と称して江戸時代の蒲生君平が名付けたらしい。

 

前方部高さ16m 後円部はそれよりやや低い。

古墳の主は「尾張連草香(おわりむらじくさか)」とか「目子媛(めのこひめ)」とか不確かに言われているのが面倒なことよ。

 

熱田神宮では「陀武夫御墓」とも言っているが真偽のほどはわからない。

 

断夫山古墳に登ったことのない人が一人いた。よい経験になっただろう。

 

投稿:歴史の里マイスターの会会員  坂下信夫

高蔵寺3号墳・・・セミの殻が~お出迎え~

 

 この古墳は庄内川の右岸に造られており、 造られた古墳時代ではもっと川の水面が高い位置にあって、川と古墳がギリギリに設計された感じがする。

 

 今の姿は復元した姿で、道路工事で削られ、住宅建築で削られており、放置して置いたら見ることのできない古墳になっていたことでしよう。古墳の規模は次のコマで解説する。

 

 特徴的に古墳の上部は雨等で崩れないように芝生です。(復元時)

 

   「この古墳は私のものとセミが言っている」ような感じがする。

 

 

 古墳のデータ(説明書き :春日井市教育委員会)

 

 春日井市教育委員会により50年ほど前に発掘調査され、保存。

 鎌倉時代に人が出入りした当時の焚火の跡の確認、土器も出土。

 7世紀初頭の構築と推定されているところを見ると、判定の基礎となっているものは副葬品によるところが大きい。

 石室は石を多く使用している。また、羨道や玄室もはっきりしており興味深いものがある。(復元)

 袖石の部分もはっきりしており目で確認したいのだが、内部のの公開は常時やっていない。

 

 

通常閉鎖中の入り口(南側)

 

 入り口の手前は相当に荒らされている。放置しているわけでもないがそれとなしに傷んでくるのでしょう。動物の出入りも考えられる。

 ゴミも確認されたが、風の仕業としておきましょう。でも墳丘は芝生を丁寧に張ってあるので、美しい。

 

 

 防護柵と鎖

 

 杭はジーッと見つめている。無断侵入は許さないぞ!!

 でも、ついつい、潜り抜けて入っている人がいるだろう。

 鎖は頑丈!に越したことはない。 覗けばよく見える物がいい。

 円筒埴輪は、この延長線みたいな気がしてならない?

 

2021年1月25日撮影

坂下信夫

フォトギャラリー:「白鳥塚古墳」=勾玉で作成

投稿:イケ麺クラブ

フォトギャラリー:桜花満開の八幡山古墳にてカードマークに出会う

  桜花満開の日に八幡山古墳を尋ねました。壮大な歴史的な事柄に翻弄された跡が手に取るように迫ってきました。 

  上の写真はその時の一枚で桜が満開にならないと見られない風景です。桜の花の白い部分の外周をなぞっていくと「♡」形になります。    そして中央の花のない部分の外周をなぞっていくと逆さ「♠」形になります。右上のかすかに見える青い部分が空でその下が古墳の天辺にあたる。県下最大の円墳、東海地方最大の円墳と二つの看板に異なる表現があるのも考古学かぶれの方々には楽しいところです。語り部のような看板によると中期の古墳と想定されはっきりしない。直径もまた、教育委員会は8.1m(81mの間違い?)     にしているのに対して鶴舞公園散歩案内看板は82mとしている。他の資料では72mというのもあったが、私の見当では80mでした。これが考古学。

巾10mの周濠が全周に残る。古墳のテラス部分に植樹。戦時中マツの木を伐採し砲台を作った戦後、その後に植樹した70年後の御老体。

投稿:坂下 信夫

フォトギャラリー:土師ニサンザイ古墳は日本一

 古墳の自慢話に日本一と言うことがよくある。(大きさ)(高さ)(標高)(広さ)などといろいろですが、

日本一美しい姿の 【前方後円墳】 と言えば上空から見た「土師ニサンザイ古墳」です。

 

上の写真は古市古墳群の研修の際に三人のマイスターだけで訪れた土師ニサンザイ古墳です。雨上がりの夕方でどっしりとしていました。この空気感の写真はまず有りません。左の図はガイドさんの手持ちのマップです。青色着色はガイドさんがしたものです。

上空からの日本一美しい姿を想像して下さい。大きさは一級品。土師ニサンザイの名は天皇の(ミササギ)から来ていると言われていますが、空墓です。

投稿:坂下信夫

フォトギャラリー?:ぬり絵用紙に色付けするイベント

2013年の守山生涯まつりで行ったイベントです。歴史の里マイスターの会のメンバーも色つけして飾りました。

 

投稿:坂下信夫

フォトギャラリー:奈良県山の辺の道 行燈山古墳の夕景

とある冬の日、夕方のシャッターチャンスを待って風邪をひきました。   投稿:金岡

フォトギャラリー:「東之宮古墳騒動の巻」

 愛知県犬山市といえば江戸時代の頃は成瀬家の城下町でした。無数の遺跡に囲まれたステキな町です。

 

 木曽川の左岸には白山が聳え、東之宮古墳があり、興味をそそられる。その山頂古墳に行き、古墳が果たした重責らしきものを感じたのは平成29年10月18日11:30頃のことです。天候に恵まれて順調に終了し、女性プロデューサーが感動の終了挨拶をする段になって、突如として下の写真の状景になったのです。偶然に発生したこと故にプロデューサーは灯籠の脇で立ちつくすばかりでした。

 

 古墳は全長約72m、犬山市の白山の頂上に作られた前方後方墳で珍しいのもさることながら、北側は原形を残していて見ごたえがあります。古墳が東の方角に向いており冬至の「日の出」が前方部の正面に来るように設計されているとのこと。私たちは昼頃に訪れたので日の出に出会うことはできるはずもないですが、前方に「東之宮社」が建っている姿は他の古墳とちょっと違ってみえました。

 

 本題に戻りますが、古墳の東側、南側、西側は拓けているけれど北側の斜面は柴と言うか草が伸びていて歩きにくい状況でした。一人が「一周するぞ!」と言い出したところ皆が着いて行くことになりました。ガヤガヤ言いながら悪路を通り抜けて湊川神社前に出て来ました。そこは先程と違い、明るくて活き返って幸せな気分になりかけたその時、一人が「あーあー」と言ってしゃがみこむと皆がその姿勢になり、上の写真の状態に変わりました。

 

 プロデューサ―とカメラマンの私は皆のような被害を受けてなかったのでプロデューサ- は呆然、私は無意識のうちに写真を撮りました。それが添付の写真です。犯人は「くっつき虫」なので、そのはなしをちょっと・・・しておきましょうか。

 

 神社の庭に何か異物を撒かれたので捜しているみたいですが、そうではなく、草むらを歩いて来た時に大量の「くっ付き虫」に張り付かれたのです。取り去るのにもう:その:大変・・・。

 そのような植物をチェックしてみたら何と、頭に来てしまってやけくそのように付けた名前がズラリとある~~。「ヌスビトハギ」「イジクサル」「ヒッツキモッツキ」「ヒッツキボウ」「だっこんび」。ヌスビトハギは日常よく見ます。サヤが泥棒の「足の跡」のような形をしており、泥棒がペタペタと歩き回ったような感じ。このあたりになると言いたい放題ですが的を得ているようですね。

 

 くっつき虫を取る簡単な方法は軍手をはめてくっ付き虫を撫でると見事に取れます。とある日、「歴史の里」を歩いていると街角でしゃがんでモソモソしているジャージ姿の女性がいました。「どうしたの?」と尋ねると「草がいっぱいくっ付いて困ってる」と言う。「軍手をはめてこすったら取れる・・軍手に着いた虫は家でゆっくりと取ったらいい」と教えると偶然持っていた軍手をはめてサッと取って喜んでくれました。今もやってくれていることでしょう。

 

 終り締めに東之宮古墳の前方部はどうして東の方角に向けてあるのか気になります。一説に(後付けの感じ)がしないではないが:世の中の運気が冬至の「日の出の刻」から上向き始めるという習わしがあるということらしい。「信じておく方が無難」と言うことでしょうネ・・

 

歴史の里マイスターの会

坂下信夫:紀行