· 

神の山:東谷山の主役たち

東谷山フルーツパークからの「白雲流れ行く東谷山」  (2018.10.8撮影:坂下)
東谷山フルーツパークからの「白雲流れ行く東谷山」  (2018.10.8撮影:坂下)

 初秋の『東谷山フルーツパーク』から望む東谷山の雄姿、真っ白い雲が「尾張戸神社」をかすめて流れ行くさまからは「神がかり」を感じる。シンボルタワーの先から噴き出すように見える数条の白線に、 麓の秋まつりへの奉祝を感じ取ることが出来る。これは、銀翼を揃えて飛び過ぎて行ったジェット機の忘れ雲ではなく、置き雲に違いない。

 

 山にはその山に宿る「山岳信仰」というものがあって、神社やお寺が 絶好の観光コースになっていることが多い。多くの登山客が登頂を目指して賑わう神社がある一方、山隘(やまあい)の道を入ってテクテクと歩いてヘトヘトにならないと、たどり着けない神社もある。また、神職がどなた様なのかなど、内情の怪しい神社もあるように聞くが、 その中には数千年前からの歴史を背負っているものがあり、貴重な宝物であることに変わりはない。

 

 絶好の機会だから、名古屋市内の最高峰となった東谷山を思い返してみたいナ・・・。 東春日井郡山田庄の「志段味郷が変遷を繰り返した末に守山町に編入して守山市が発足した。 その後、間もなくの昭和38年に守山区として名古屋市に編入した歴史を抱えて現在に至っている。この、 編入事業記念の象徴となったのが、霊峰:「東谷山」。 以来50年ほどになるが、東谷山は中世初期において「當國山」」と書き呼ばれたことがあり、出土した筒にも「當國山」と書いてあると伝わる。「當國は尾張の国のことを言い」その最山手のもっとも奥に「聳え立つ山」として重要視したのかも知れない。

 武家社会の歴史も背負って来た山でもあって、長い歴史の中で瀬戸の水野村に居住した平氏の系を引く初代御林方奉行 「水野権平正勝 が治めていた地域でもある。「権平は諱(いみな)」で明治維新まで引き継がれた。

 

 尾張戸神社の祭事や管理などに現;瀬戸市民がかかわっている部分が非常に大きい。山頂には、 尾張戸神社があり、 三柱の神様が鎮座している。 この神社の由来を見ると「一柱が建稲種尊(たけいなだねのみこと)で、 その御妹(おいもとご)が熱田の宮簀姫(みやずひめ)である。とある。 尾張戸神社と熱田のつながりの深さを感じていただけることと思う。 他の二柱は「天火明命と天香語山命」。太い血筋に敬意を感じていた名古屋城主(尾張藩主)の初代義直(よしなお)から2代光友(みつとも)と続き~更に~16代義宜(よしのり)~17代慶勝(再勤:2回目)までの歴代城主が莫大な寄進を続けてきた。

  また、 尾張戸神社は尾張戸神社古墳の上に鎮座しており、古墳には尾張の祖神が埋葬されていると伝わるところにずっしりとした意義を感じる。 

 

特記すべきことの一つに・・

※ 十一代目城主斉温(なりはる)は、八歳で尾張藩主になり、二十歳まで十二年間務めたが、亡くなるまで江戸に居て一度も名古屋入りをしなかったそう。唯一、名古屋城にいたことのない殿様と伝えられているので、尾張戸神社に登上参拝した事実はないが、 尾張戸神社を崇敬していたことにはゆるぎはない。その根拠には尾張戸神社が熱田神宮及び名古屋城の鬼門(重要な方角)に当たっていること、尾張の祖神が関係していて、尾張藩主としては絶対に護持しなければならない神社だったことから推察できる。 ※

                                          

尾張戸神社の拝礼所から入り、5メートルほどの階段を登ると尾張戸神社の境内で、お社が鎮座している。10メートル四方ほどの境内には陶器製のうす青っぽい美しいデザイン瓦が敷き詰められている。珍しくて貴重な感じがする。 このことから「瀬戸物の里の瀬戸市民の思い込みは他の追随を許さないほどに強いナ!と認識を新たにする。

 

 残念なことに、尾張戸神社古墳には「盗掘の痕跡」があるらしい。実際に埋蔵物を持ち去ったかどうかは分っていないが

盗掘場所が神社の鬼門に当たる東北(方角)の隅なので、 当人は神のバチ(罰)が当たって苦しんでいるかもしれない。

 

平成26年10月尾張戸神社古墳が「国の史跡」に指定されたので、 指定区域内の草木一本 、 石コロ一個に至るまで 、無断で移動したり、勝手に持ち去ったりしてはいけないことになったことを ・・お伝えてして・・終わりたいと思う。

 

 

                                             2020.6.10

歴史の里マイスターの会会員 

坂下三遊(本名:信夫)