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「奈良の古墳探索_その2」

前回の纒向古墳群(箸墓・石塚・勝山・ホケノ山など)や柳本古墳群(行燈山・渋谷向山・黒塚など)に引き続き、今回は萱生(かよう

)古墳群(西殿塚・東殿塚・中山大塚・下池山など)と万葉歌碑3つの探訪です。

近鉄特急 ひのとり 乗車の後、次のような経路を辿りました。

[JR柳本駅]_万葉歌碑A(長岳寺北)_中山大塚古墳_

灯篭山古墳_西殿塚古墳_東殿塚古墳_西山塚古墳

_万葉歌碑B(萱生かよう集落)_ヒエ塚古墳_ノムギ古墳_

マバカ古墳_栗塚古墳_下池山古墳_[ランチ]

_万葉歌碑C(大和おおやまと神社)_フサギ塚古墳_

矢矧やはぎ塚古墳_星塚古墳_[JR長柄駅]

 

 

(1)中山大塚古墳(前方後円墳 130m 4世紀前半)_大和おおやまと 神社の御旅所

 長岳寺から北に進むと中山大塚古墳が見えてきました。

山辺の道の休憩所があり、すぐ右(東)には下の万葉歌碑が立っていました。最初の目標物です。

 

 

 万葉歌碑A_柿本人麻呂の歌碑が中山大塚古墳の南側の道で見つかりました。

 石碑には万葉仮名で書かれていますが、写真は横にあった現代表記の板です。

 「妻を置いて」出た旅では、生きた心地もありません[生跡毛無]とうたっています。

(巻2―212)

 

(2)西殿塚古墳(前方後円墳 240m 3世紀後半)_手白香皇女たしらかひめみこ? の陵墓

 拝所(左)から、後円部の横(右)を辿っていくと、テラスらしきものが2段にわたってあるのが見えました。

この古墳は箸墓古墳に次いで古い大王墓であり、一説によると台与の墓、あるいは崇神天皇の陵墓といわれています。

 

 さらに進んで、萱生(かよう)集落の北入り口近くに歌碑を見つけることができました。

 

 万葉歌碑B_人麻呂歌集の歌です。

 

「弓月が岳(巻向山の最高峰)」の雄大な雲を詠んでいます。

(巻7-1088)

 

(3)ノムギ古墳(左 前方後円63m 古墳時代最初期) ヒエ塚古墳(右 前方後円130m前期)

 

(4)下池山古墳(前方後方120m 4世紀前半)_木棺、内行花文鏡が出ました。

長い前方部を眺めていると、志段味にある柄鏡式の白鳥塚古墳を彷彿します。

 

(5)大和おおやまと 神社_戦艦やまとの展示室もありました。

 万葉歌碑C(山上憶良「好去好来」の長歌)に立ち止まりました。

 遣唐使に送った、別れのことばと無事帰還を願うことばです。

 (巻5-894)

 

 ランチのホットサンドイッチとお店の人との楽しい会話によって、疲れた足(歌碑Bにでてくる「あしひきの」状態)を癒すことができ、残りの行程をつづけることができました。

近辺の200m級の古墳を年代順に並べてみると、

年代_古い順  古墳 古墳群

墳形

墳長 / m
箸墓 箸中(纒向)

前方後円

280
西殿塚 大和(萱生) 前方後円 240
外山茶臼山 [三輪山南西] 前方後円 208
メスリ山 [三輪山南西] 前方後円 250
行燈山 柳本 前方後円 240
渋谷向山 柳本 前方後円 310

 

となります。

 この地域(現在の桜井市と天理市)に大きな前方後円墳が6基あります。継続して築造されたのなら、一世代20年としても、100年以上もの間、強い勢力が続いていたことになります。古墳時代前期のヤマトがやがてそのまま全国的なヤマトへと発展したとは限らないでしょうが、何らかの強いつながりがあると思われます。

 

 その後、400年ほどで万葉の中心時代に入ります。万葉集の歌のおかげでその時代、人びとがどのような気持ち(悲しみや喜び)を抱いていたか身近に知ることができます。それでは、古墳時代の人びとの心についてもこのような明確なイメージを浮かべることができるでしょうか。

 

 われわれの世代が生きている間に、古墳を作ってきた人たちの気持ちをはっきりと知る手立ては得られるでしょうか。一つは、副葬品などにみられる大発見かもしれません。文字資料があれば、さまざまなことが推測できます。でも、何十年も先かも知れません。もう一つ、新しい展開が期待できるのは、前回お話ししたミューオンによる物理探査といった技術的な進展で、大きな飛躍がある可能性です。これもまた期待過多かもしれませんが。いずれにしても夢や妄想がまだまだ続きそうです。

 

『オオヤマト古墳群と古代王権』(青木書店、直木孝次郎・白石太一郎ほか 2004)を参考にしました。  

 

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