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馬の道 探索2(現地研修)

 10 月 15 日(金)高蔵寺駅 9 時集合。

 

今日は 8 月の座学で取り上げた伊那谷からの馬の運搬ルート(名古屋市 伊藤学芸員の論文による)を実際に歩いてみようという企画だ。

参加者は 25 名。

 

抜けるように青い空、澄んだ空気、絶好の遠足日和である。

 

高蔵寺駅を出発後、最初のポイントは、香林寺という禅宗の尼寺。

西側に湿地が広がる段丘上にあり、この地に古墳もあったようだ(香林寺1・2号墳)。

人や物資が行きかうルートであっただろう。

神坂峠・内津峠を歩いてきた馬が、流れの速い内津川と在地勢力を避けたとすれば、

きっとここを歩いたに違いない。

 

<左側の道が馬の道>

次は、南気噴宮西遺跡。弥生時代から中世のころまで続く集落跡だ。現在は商業施設の駐車場になっていて面影もないが、人々の行きかう様子は当時も今も同じかもしれない。

周辺には南気噴向田遺跡や南気噴畑中遺跡、もう少し先には大留遺跡が複数点在している。

この地の人々が庄内川の物流に携わっていたことは疑いようもない。

馬の運搬に必要な人夫も多数提供していたと思われる。

そして彼らこそが、志段味古墳群形成にもかかわった人々だろうか?

<当時の様子を想像する>

繁田川に到着。

伊藤学芸員の説では湊があったとされるところである。

この流れに船を浮かべ馬をのせたのだろうか。

<繁田川の流れは穏やか>

繁田川はやがて庄内川に合流する。

 

馬をのせた船が大きな流れへと出る瞬間、馬たちはどんな表情をしただろう。

正面には美しい東谷山が見える。

山を仰ぎ見ながら仕事に励む人々をまとめる首長は、

 

西大久手の主なのか?志段味大塚の主なのか?はたまた‥‥?

<庄内川に流れ込む繁田川>
<庄内川に流れ込む繁田川>
<東谷山の姿に息をのむ>
<東谷山の姿に息をのむ>

合流地点には大留城跡もある。

繁田川が自然の堀になっていたと O さんが説明してくださった。

 

天王山古墳のある天導塚公園で休憩。

天王山古墳は前方後方墳である高御堂古墳と同じ赤い壺型埴輪を有しているが、円墳である。

古墳築造の時期に志段味古墳群の首長の支配下に入り、倭王権のルールが適用されたというのが名古屋市 深谷学芸員の説。

それにしても公園と古墳の名称が、文字も響きも違っているのはなぜかな?

親王塚古墳も見学し、深谷学芸員の説で、庄内川最奥の湊があったとされる場所を確認しに行く。

そこは内津川との合流地点の手前で、現在は流れが速く、馬どころか荷物を積むのも一苦労なのでは?と感じるほどだ。1600 年前の庄内川はどのように流れていたのだろうかと考えていると、Kさんが、対岸にある天白元屋敷遺跡や江戸時代使用された舟着き場(現在も舟場という名称が残っている)の話をしてくださった。そうか、湊の存在を否定できないようだ。

帰りは来た道を引き返す。堤防上を東谷山と高座山に向かって歩く途中、

「こちら側からの東谷山もいいね。」

「いつも見ているのに対岸から見たことなかったね。」と話す皆の声が聞こえる。

 

疲労感と暑さを、青い空をバックにした東谷山が癒してくれている。

 

まさに今回の見どころの一つは、庄内川越しの志段味古墳群と東谷山の景色だ。

古墳時代の人々はどんな気持ちで対岸を眺めていたのだろうか。

<研修も終わりに近づき最後に、堤防から東谷山と志段味古墳群を眺める。>

馬の道を歩いてみて、

庄内川の右岸には多数の集落遺跡があり、その人々が物流に携わっていたことは間違いないと再確認できた。

岩波日本史事典には「古墳時代の 5 世紀以降に馬の飼育が始まり、律令時代以降東日本に官牧や勅使牧が設置された」とある。

西大久手古墳や志段味大塚の主たちの頃には、まだ馬の生産と運搬は試行錯誤の繰り返しではなかっただろうか。

伊那谷で育てた馬が大和へ運搬されるルートのうちのひとつが、今回の馬の道だったかもしれないと感じた。

 

今回は、庄内川右岸(春日井側)を歩きながら、馬の道を想像したり、東谷山と志段味の眺めを楽しんだりすることができた。この研修を担当された K 氏に心から感謝したい。

 

 

あの時船にのせられた馬たちは、今頃どの辺りにいるのだろうか。