縄文時代から貝輪の希少な素材であったオオツタノハは、磨けば象牙質の光沢とほの赤い放射状の線が浮き出る美しい貝輪になります。
他に貝輪の素材として人気だったのが、ベンケイ貝やサトウ貝。いずれも二枚貝で水深5m〜20mの砂地に棲んでいて、これを採るのは大変!と思いきや、死貝は暴風により海岸に打ちあげられるのです。時化の後には、女性たちがこぞって貝殻拾いを楽しんだ様子が想像できます。
それに比べてオオツタノハは、丸木舟に乗り遥か遠い島へと追い求めたのです。
東日本では伊豆諸島の南部で採れたオオツタノハが、西日本では南西諸島で採れたオオツタノハが流通しており、『東の貝の道』『西の貝の道』と呼ばれています。
【オオツタノハ】
日本での生息地は房総半島以南の島々で、岩礁にへばりつき、大潮の最干潮時にしか姿を現さない幻の貝。笠貝の仲間で、大きいものは10cmを超えます。食用になり美味。
古墳でのオオツタノハ製貝釧は少ないのですが、大分県の佐賀関半島にある前方後円墳、築山古墳に副葬されています。ヤマト王権の海上交易を担った海部の豪族の古墳です。女性の首長は左右の腕に5個ずつ装着していました。
古墳に多く副葬されているのは貝釧をもとにした腕輪形石製品です。
奈良県天理市にある4世紀につくられた櫛山古墳は、双方中円墳とも呼ばれる特異な形の古墳。前方後円墳に、円部を挟む形で短い方形部が付いています。後円部(中円部)の竪穴式石室からは多量の腕輪形石製品が出土しています。石釧は113個、車輪石は106個と最多数を誇ります。
オオツタノハ製貝釧をもとにしたと考えられている車輪石は、笠貝の放射肋を強調したデザイン。太陽の光が雲の隙間から放射状に見える「薄明光線(はくめいこうせん)」を私は想い浮かべました。日没時の西の空で、積乱雲の影が太陽をふさぎ、光が水滴やチリなどに乱反射したことで見える現象。光芒・後光とも言いますが、沖縄八重山の地域では『風の根〈カジヌニィー〉』と呼んで大風の兆しととらえました。更に水蒸気が多いと、光線が天頂を通り東の空に届きます。これを『天割れ〈ティンバリ〉』(反薄明光線)と呼んで台風の兆しと恐れました。
想像力を膨らませると、南洋の貝は国生み神話の光景である天と海を具現化したものではないでしょうか。車輪石は放射状の光を放って、黄泉の国を照らすものかもしれません。
第2話
弥生時代の農耕社会では、豊穣を祈る祭祀に用いた〝うずまき文様〟を、首長層は貝輪に求めました。主に、南洋に棲む大きな巻貝ゴボウラやイモガイの螺構造(うずまきデザイン)を生かした貝輪です。
古墳時代の前期になると装身具ではなくなり、呪力を持った儀器として古墳に副葬されるようになります。古墳時代のものを貝釧(かいくしろ)と言います。貝は、ゴボウラやイモガイの他にオオツタノハ、スイジガイなどが使われました。
貝釧は腕輪とは思えない形に変身し、材質が石に変わります。貝の大きさや構造という制限がなくなり、石製の釧は洗練されたというか、幾何学的ともいえる文様のデザインに生まれ変わりました。腕輪形の石製品(せきせいひん)は鍬形石・車輪石・石釧の3種類あり、最上級の古墳に副葬されています。
石釧(いしくしろ)は前回ご紹介したイモガイが元になったと考えられています。イモガイをヨコ割りにした貝輪は弥生時代から首長層の女性が身につけていたもの。
大和古墳群のなかの下池山古墳の石釧はガラス質凝灰岩製。一本の沈線が美しい。
桜井市にある池の内5号墳の石釧。見た感じでは緑色凝灰岩製でしょうか。縦に細かく沈線をいれていますが、イモガイは巻貝の縱肋(縦の筋)が目立たない貝です。二枚貝や笠貝の放射肋を想起させます。
石釧は腕輪にしても良さそうですが、重いのを生前に使用していたのでしょうか。次回は車輪石の元になった貝です。
第1話
いにしえのアクセサリーは土(焼き物)や石、動物の骨など身の回りの自然素材でつくられています。
干潟で容易に採れる貝も素材の一つです。ところが、遥か遠く、南西諸島などの温暖な海域で生息する貝でつくられた腕輪が全国各地から出土しています。貝製の腕輪を考古学では〝貝輪〟または〝貝釧(かいくしろ)〟といいます。
縄文時代に作られ始めた貝輪は、形や価値観を変えながら弥生時代、古墳時代まで作られ続けました。
使われた貝は多種ありますが、古墳時代に主流な貝を紹介します。
【イモガイ】
主にサンゴ礁に棲む里芋のような姿の巻貝ですが、毒を持ち食用にはならないそうです。
写真は安土城考古博物館の特別展「馬でひも解く近江の歴史」の展示品です。