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1月30日豊橋美術博物館「銅鐸の国」展と豊川市 船山古墳 研修

名古屋から豊橋へは電車で1時間、名鉄の「特割2平日」を利用すると往復1780円と、気軽に行けます。豊橋駅から路面電車に乗って豊橋美術博物館へ、「銅鐸の国」展を観覧します。

 

銅鐸といえば、豊穣を願う祭りに銅鐸を鳴らす弥生人をイメージするでしょうか。「銅鐸の国」展では三遠式銅鐸という大型の〝見る銅鐸〟を多く展示しています。東京国立博物館所蔵の銅鐸が見れるとあって、22名が研修に参加しました。そして、企画展を構想された豊橋文化財センターの岩原所長に解説していただきました。

 

100年前、旧小坂井村伊奈で三遠式銅鐸が3点出土しました。高さは、およそ74〜81cmです。

東京国立博物館から里帰りした伊奈銅鐸1〜3号

 

銅鐸は釣鐘の形をしていますが、外から突いて鳴らす鐘と違い、中にある棒(舌・ぜつ)を揺らして鳴らします。

銅鐸集中地は、西は出雲地方、東は三河・遠江です。岩原先生のお話では、天竜川を境に文化圏を異にすることが土器に現れており、銅鐸の東端は天竜川にあたるとのことです。

 

銅鐸は集落から離れた山裾などから出土していますが、数センチから十数センチの小銅鐸は集落から出土しており、銅鐸と区別しています。

円筒の箱の小銅鐸は泥でパックされた状態で出土し、銅鐸本来の色を保っています。真空状態にすることで酸化を防ぎ、緑青色に変化しません。

銅鐸形土製品は、銅鐸がない関東でも出土しています。四角の孔が開いていますが、銅鐸の鋳型の外型と中型の支えを置いた跡を表現しています。外型と中型の隙間に溶かした銅を流して作ります。

 

鹿と2羽のサギが描かれた三遠式の絵画銅鐸

 

銅鐸の文様などの特徴を1点1点、説明していただき、あっという間に1時間を過ぎていました。

最後に、岩原先生と記念撮影して銅鐸とお別れ。午後は豊川市へ向かいます。

 

ランチは豊橋駅周辺で各々とり、名鉄国府駅へ。歩いて5分の所に三河地域最大級の前方後円墳、船山1号墳がありますが、先に30分ほど歩いて三河国分尼寺跡にある三河天平の里資料館に向かいました。午後は風が強まり身体が冷えましたが、資料館の方が暖房を効かせてくれたのでホッとできました。

船山1号墳は公園整備をほぼ終えて、資料館に出土品が展示されており、豊川市教育委員会の天野学芸員に解説していただきました。

 

天野先生は何度も志段味古墳群を訪れているそうで、志段味大塚古墳と船山1号墳の造り出しの共通点など、古墳ガイドに役立つ知識を教えてくださいました。造り出しは墳丘のくびれ部分によくあるが、前方部と後円部の両方に接続しているのは珍しいとの話に、「そうだったのか!珍しいんだ!」と声が上がりました。

発掘調査の墳丘の断面が見れる「土層はぎ取り」の標本展示です。ブロック状の「土塊状盛土」で墳丘を作っていました。土塊状盛土の重さは1個で約25kgもあります。日本最大の前方後円墳、大山古墳にもこの工法が用いられています。

出土品にも珍品があります。

杓子形土製品はここのと宮城県にひとつ出土例があるだけだそうです。

食物供献を土器でつくり、形式的に供えられたと考えられる食器類と食物のセットがありました。笊形土器は実物の笊を粘土に押し当ててつくられているそうです。

 

国分尼寺の復元された中門で記念撮影をし、船山1号墳に天野先生と歩いて向かいました。途中、国分寺を通り、ここは八幡(やわた)台地、八幡台地を下りてしばらくすると坂になり、ここは白鳥(しろとり)台地でこの台地上に船山1号墳があると、説明を受けながら歩き、さながらブラタモリ気分でした。

船山1号墳は築造5世紀後葉・推定墳丘長96mの前方後円墳なのですが、開発でずいぶん削られています。

根元が露出している大きな切り株の辺りが後円墳の真ん中になります。ここにあった社が墳丘裾に移設されています。

覆いを取って、新品の解説板は先生も初見でした。

天野先生が我々はのために葺石を再現してくれていました!(今後、一部復元されます。)

葺石の並べ方は、一番下に大きな石を置き、1m間隔で縦に積み、その間を埋めていくように積みます。

 

道路を渡って、前方部裾にあった埴輪棺を見て終わりなのですが、なんと! 先生が国分駅まで見送りしてくださいました。

 

雪がちらつく寒い日でしたが、豊橋市と豊川市の先生方の熱心な解説に、心温まる充実した研修となりました。ありがとうございました。三河の古墳、今後も注目していきます。