登山と麓のスキー場で有名な長野県の白馬(はくば)岳。その名の由来は、雪どけの季節に馬の形をした黒い山肌が現れ、その頃、里では「代(しろ)かき」という水田農耕の季節にあたるからという(『日本歴史地名大系 長野県の地名』、1979年)。代が白に変わり、「シロウマ岳」と呼ぶべきものを「ハクバ岳」と呼ぶようになったというわけ。
今年は午(うま)年。故郷・安曇野の中心部から馬の形をはっきり確認できなかったが、水田で馬が働いていた風景を思い出す。付け加えると、肉を食べると言えば馬。豚、牛を口にしたのは、上京してからだった。
馬は元々、日本列島に生息していず、古墳時代の4世紀末、大陸から朝鮮半島経由で、運ばれて来たといわれる。倭国が高句麗との戦いで騎馬軍団に圧倒されたことが理由らしい。畿内で飼育が始まり、長野、群馬など東国に大規模な牧場が設置され、馬の繁殖や飼育には渡来系の人々が関わったようだ。「日本書紀」継体紀、欽明紀によると、6世紀、倭国が百済に馬を贈ったとの記事がある。輸入国から輸出国に転じたのだ。
名古屋市守山区の志段味古墳群でも馬に関係する遺物がある。西大久手古墳の馬形埴輪や志段味大塚古墳の馬具など。ミュージアムには、志段味大塚古墳から出土した武具を身にまとい、騎乗した王の姿が復元されている。馬は古墳時代、牧があった大阪府の遺跡で見つかった骨から推定したサイズ。
長野県では5世紀代、天竜川流域・伊那谷の飯田地方で馬の飼育が盛んに行われたことが考古学の調査で確認でき、関係する集団の古墳も多数ある。そこから馬は当時の王権の本拠地の畿内まで、どんなルートで運ばれたのか。長野・岐阜の県境には標高1595m、神坂(みさか)峠の難所が控えている。今は高速道路のトンネルが直下にある。峠には通行の安全を祈った祭祀遺跡やヤマトタケルの伝承が残り、ここで詠まれた防人の万葉歌もあるので、徒歩で越えたことは確か。実験によると、ポニー程度の馬なら峠越えは可能とか。
峠をう回したとの説もあり、道筋は不明だが、馬の輸送路が律令制の「東山道」の成立に結び付くといわれる。律令制以前の原初的な道は「古東山道」とか「原東山道」とも呼ばれる。研究者の論考では、岐阜県内では中津川・恵那・瑞浪あたりから可児へ抜け、木曽川を渡り、美濃国府(垂井)・不破に向かうルートが想定されている。
志段味地区は「古東山道」から外れるが、古墳群の発掘調査報告書(2019年)の論考によると、伊那谷の馬は東濃の山中を通り、内津峠を越え、庄内川から船に乗せられ、伊勢湾を渡り、三重県経由で畿内に運ばれたとみている。馬は春日井市の庄内川上流付近で休息、この輸送に関係する集団の墳墓が段丘上の帆立貝式古墳と推定している。
これに対し、馬は列島への導入時、海を越えてきたが、当時の船の構造では運ぶ数も2疋ほどだったみられる。馬は神経質で輸送に船は不向き。大量のしかも王権にとり貴重なものを水上輸送したか疑問が残る。ただ、古墳の分布などから、庄内川沿いに陸上の道が存在し、馬による情報伝達とか、河川も物資輸送に利用されたとみられる。
午年にちなみ出版された『馬と人の古代史』(若狭徹、角川選書、2026年)によると、日本の馬の総飼養数は約7万7千(2024年)だが、在来馬は1612疋にすぎない。しかし、古墳時代の馬の導入は古代国家の形成と生活に大きな影響を与え、筆者によると「動力革命」。今も自動車のエンジン性能は馬力で表され、「馬力のある人」という表現もある。人と関わりの深い動物の一つ、古代の馬に想いをはせたい。
(岡村)
