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津堂城山古墳などを訪ねました

2026年4月9日 メンバー4名で津堂城山古墳(大阪府藤井寺市)から始まり、古市古墳群の北域を訪ねました。

 

近鉄南大阪線の藤井寺駅から北に向かい津堂城山古墳(墳丘長210mの前方後円墳、4世紀後半)に着きました。前方部は長く広がって残っていますが、後円部は室町時代に城を築くため大きく削られていました。周囲には大きな二重の濠跡が残っており、天皇陵に匹敵する大王級の陵と感じられました。

古墳横のガイダンス棟「まほらしろやま」には、後円部の埋葬施設にあった巨大な長持形石棺(竜山石製)が、梅原末治らの図面と1912年の発掘時の写真から復元され置かれています。大きさにまず驚かされます。

 

   石棺は立ち湯の深さ山笑う                     イケメン

 

次に藤井寺駅にバスで戻りランチ後、仲哀天皇陵(岡ミサンザイ)古墳の陪冢と考えられる鉢塚古墳(墳丘長60mの前方後円墳)を地図で探していると、地元の人が「案内してあげますよ」と同行してくださりました。途中、辛國(からくに)神社、葛井寺(ふじいでら)に立ち寄り、鉢塚古墳に到着しました。ここは規模が小さいですが、墳丘の形がきれいに残っています。

鉢塚古墳の墳頂からは「河内側からの二上山」がきれいに見えました。次に仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳、雄略天皇陵との説が有力)を見学し、アイセルシュラホールへ向かいました。ここは藤井寺市の多目的ホールになっており、建物の外観は修羅(古墳の石を運んだ木そり)と船形埴輪をかたどっています。ここには西安で発見された井真成(いのまなり、699-734年日本人留学生)の墓誌のレプリカや、また3体の水鳥形埴輪(津堂城山古墳出土)も展示されています(1体は修理中)。

また岡ミサンザイ古墳の南西部にかつてあった岡古墳から出土した、大型の船形埴輪も見られます。

ここで元学芸員の方から詳しい展示説明を受けることができました。応神天皇陵近くの墓山古墳には陪冢として多くの方墳があり、そのひとつ西墓山古墳から出土した副葬品として、埋蔵用に特別に用意されたと思われる大量の鉄鋌や鉄製の武具や武器が再現展示されていました。

 

また元学芸員さんからは、応神天皇陵古墳の北にある古室山古墳(墳丘長150mの前方後円墳、4世紀後半)の墳丘上から東に玉手山を望むことができるとうかがい、少し歩いて本日最後の古墳の古室山古墳に登るとそれらしき山を遠くに見ることができました。写真ではその手前に仲姫命(なかつみめのみこと)陵古墳が見えています。

 ここでメンバーの一人から玉手山古墳群に関連して次のような見解が示され、元学芸員さんからはありうることの返答をいただきました。

 

 「 ヤマト政権の勢力が河内に進出するに当たり、玉手山古墳の勢力を飲み込む様な大きな力が必要になった。津堂城山古墳の被葬者は大王クラスに匹敵する地位と後ろ盾を持つて地域を掌握した。古墳の築造は馬見古墳の巣山古墳に匹敵している。」

帰りの土師(はじ)の里駅に向かって歩くうちに、ハナズオウの花をみかけました。

万葉集にはこの花は出てこないようなので、音の近い「はねず」にちなんで次の歌を記します。

 

  唐棣花(はねず)色*の移ろひやすき情(こころ)なれば 年をそ来経る言(きふること)は絶えずて

                                  *庭梅(はねず)染の赤色か

 (唐棣花色のように移り気なお方ですこと。手紙はくださるもののもう長い間お逢いして頂いておりませんよ。)

                                      (巻12―3074)

 

 最後に、藤井寺駅前で古墳巡りパワーの充電のために食べた濃厚藤平ラーメンを並べておきます。少し遅くなりましたが今回も無事、帰名することができました。

 

   古墳出て古墳に向かう春帽子                     イケメン